9:30~12:30
天気予報は外れて、くもりのち雨。一行30人あまり、博物館の塩谷さんを先頭に雨の中を歩くことになりました。
ムラサキケマン、オドリコソウが咲いている木立のかげを通って、最初に訪れたのは学園線北側の二号古墳。
竹林に覆われた長円形の塚に登ると象亀の背中に乗った感じ。柄の前と後に、ストーンサークルに囲まれたワラホウデンが祭られ、少し神秘的な雰囲気です。竹藪はよく手入れがされていて、塚の保存も良好です。「たぶん、お骨が入った石棺が埋まっていると思います。」という説明に人の頭を踏みつけているようで申し訳ない。直接の関係はなくても、祖霊の宿るところとして、古墳は村の人達に代々、大切の受け継がれてきたのでしょう。(中略)祖霊崇拝もアニミズムもかげをひそめ、目先の利益のみを追う経済合理主義が優先して、こわいのは文化庁だけと言う時代に生きて、宍塚古墳群を今に伝えた人々の功績を改めて認識しました。宍塚古墳群は分布図によると番号のついてものだけでも16、全部数え上げたらいくつになるでしょうか。シシヅカという地名は塚が四十四あるからだ、という伝承があるとのこと。これはちょっと嘘くさいけれど、茨城県ではこの規模の古墳群は二つしかないそうです。
塚を下りると上野池に雨が波紋を落としていました。一号、三号、四号墳を破壊した土浦学園線の切り通しを眺めて大池へ。藪刈をした十六号墳は足場が悪いので登るのを割愛して池を回って栗崎遺跡に向かいました。
途中、谷津田に流れ込む小さな流れにかけられた石橋の石は、石棺か石室のものに相違ないと、塩谷さんの鑑定。このあたりくわしく搜せば転用はほかにもあるかもしれません。葉桜の緑、コナラの芽吹き、濡れた木々の肌、春雨の大池の森はこの日この時だけめぐり合うことが出来た絶景でした。その中を色とりどりの傘をさして長い一列になって歩く。雨ならではの風情です。スミレがたくさん咲いていました。栗崎遺跡は一面の芝畑、畑のふちに条文土器の破片がザクザク、黒曜石の矢じりや滑石の祭器なども発見されているそうですが、ここが遺跡といる感じはしませんでした。この芝畑は栗崎遺跡の跡というほうが正しいようです。芝の下に、あるいは周りの林の中に未知の過去がねむっているかもしれませんが。
谷津の一番奥を通って最後の目的地、上高津貝塚へ。ここはきれいに草刈りされていて、貝層の露頭がよくわかります。かつて霞ヶ浦はこの近くまで湾入していたとのこと。この丘で潮騒を聞いた古代人は春雨をどんな気持ちで眺めたのでしょうか。大量のシジミやハマグリの貝殻の存在は、ここが集落の周りのゴミ捨て場であったといよりは、会の加工場の跡と考えるほうが、よいのではないかといる塩屋先生の説明に霞ヶ浦名産つくだ煮のルーツここにありと感心しました。アジのひらきやイワシの丸干しも作っていたかもしれませんね。貝殻にまじって土器の破片も多く、この貝塚を産業廃棄物の元祖とする説はうなづけます。干しハマグリと黒曜石の取引に腕を振るう上品人を想像するのは楽しい。
ここは国の史跡に指定され、全域が市有地になっているとのこと、宍塚古墳群も早く同様な処置が取られると安心です。「宍塚村だけで、あれほど多くの墳墓を作ったとは考えにくい。宍塚は墳墓適地あるいは聖地として人気があったのではにだろうか。宍塚に墓を作ることは近在の首長たちのステイタスシンボルであったかも知れない。”超高級墓地、只今分譲中。先着四十四名様限り”」などと、加工場説に触発されて勝手な空想をしながら出発点のロブスター前に帰り解散しました。
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